●美術がわからないのはあなたのせいではない、しかし…
アートとは車より高いクワガタである
私は美大で製作側だけでなく、鑑賞する側、展示する側の視点を学ぼうと学芸員資格過程を履修しました。そして自分自身が無条件にモチベーションにしている”好き”を共有できない層の人々が世間には予想外に大勢居るという事実に付き当たり、人間の視点の共有可能性について思索するようになりました。
アートが、殊に現代美術が苦手という方は多いようです。難解で、その価値が掴み辛い作品群の鑑賞が苦痛だという声を聞く事もあります。と同時に、わからない自分にはセンスがないのか、頭が悪いからなのか、という不安を抱えている方も相当数のようです。
結論から申し上げれば、わからないのは当人のせいではないし、このわからなさは実はちゃんと解読できる性質のものです。そして、アートを巡る”わからない”理由を解読するという事は、すなわち今日の資本主義社会を我々が生きるために必要な「教養」であるという事をここで強調しておかねばなりません。

我々は普段、需要と供給には適性な価格相場というものがあり、それが共有される常識、あるいは道義が存在するという前提で捉えがちです。市場経済はそのガラスの天井が覆う限界高度の範囲で健全さを保っているように見えるのですが、実際にはごく限られた青天井の領域があります。
あなたは車より高額なクワガタが存在する事実をご存じでしょうか。

古典主義時代の美術と現代美術の間にはアルファベット表記の古文とマシン語表記のプログラム言語程の隔たりがあり、同一の文法で読もうとしても意味不明なのは当然です。だから必要なのはまず、わからなさの所以を理解する事なのです。
モナリザ
マルクス近代から現代への宿題
つい忘れがちな事なのですが、現在のアートシーンを読み解く談義に参加する重要な大前提として、絶対に踏まえておかなければならないのは美術がこの社会において、よくわからないものになったのは近代以後であるという事実です。
産業革命に始まる近代という巨大なパラダイムシフトの時代の波は、資本主義生産様式を確立させ、それはこの世界の社会構造に不可逆的な変革をもたらしました。美術もまた、その波と無縁ではありえず、近代以前と以後を隔てる価値体系の断層を意識せずして論じる事は能わないのです。

近代以前、美術は”わかる”ものでした。それが当たり前であり、宗教的権威の、王侯貴族の権力の象徴、具現化として、識字率の低い平民、無学な文盲の人間でも一目見ればその価値が理屈抜きでストレートに伝わる。その絵画や彫刻、装飾の技巧上の機微は理解できなくても、存在価値は感動となって体感できるものでした。
モナリザでは、なぜわかる事からわからない事への価値の転換が起こったのでしょう。
近代の嚆矢となる、市民革命による絶対王政の打倒と19世紀の産業革命に伴う市民階級の資本家(ブルジョワジー)の台頭で、社会のイニシアチブをとる階層に変動期が到来しました。更に本格的な資本主義経済社会への移行は中産階級である大衆(マス)層を生み、その文化面への影響力を増大させました。
芸術領域の変革が顕著であった絵画表現から見ていきましょう。
市民革命により絶対王政の権威が失墜したように、美術界でも封建的な王立アカデミーの権威に対して反旗が翻るようになります。絵画史における近代の代名詞、「印象派」の勃興は従来のアカデミー・サロンの規範であった”古典主義の美”からの離反を推し進めました。

その主題においても、技法においても、新たな地平を切り開いた彼らの活躍は初めこそ嘲笑で迎えられましたが、やがてそれは喝采に変わっていきました。しかし正しき達成と思われた、このムーブメントが一世を風靡し終える頃、そこには近代の曙が去った後の地図なき荒野が待ち構えていたのです。
近代という時代は、現在を生きる我々に輝かしい発展と啓蒙の記憶のみならず、終わりなき前衛の探求という、ある種の苦行を課す宿題を残していったのでした。
それが何故なのかを歴史的に紐解いてみましょう。

メソッドの刷新、その功罪
保守的なアカデミズムの壁に拒絶された印象派の革新性を受け入れていったのは、まず新興富裕層の市民たちでした。
この時代になると絵画のサイズが小さくなり、王侯貴族以下の階層でも自宅に飾れるようになる事で購買層の裾野が拡がりました。芸術的価値基準の評価にもデモクラシーの波が予感されるようになるのです。
市民階級によるサロンとは別個の評価軸の確立は、その後の自由で独創的な芸術表現への道程となり、宗教的権威が低下し世俗化してゆく社会で、主観的価値観が尊重される気風の現れであり、近代的個人主義という時代の価値観の要請でもあった事でしょう。
二―チェしかし、芸術的価値基準を巡る主導権が貴族的特権から新興の富裕層を中心とした市民的レベルに移譲されていった、この時代がブルジョワジー(資本家階級)とプロレタリアート(労働者階級)という市民層の深刻な分断を深めていった世相を背景に持つ事も忘れるべきではありません。
ともあれ近代のこの時期を境として、芸術は資本主義経済社会の力学と無縁ではいられなくなるのです。
マルクス
絵画の主題が壮大な神話や歴史から、市井の日常と現在の風景を活写するものへと変貌を遂げると共に、技法の面においても19世紀前半の写真技術の登場以降、伝統的写実表現への懐疑から大きな変革期が訪れました。
写真機にその地位を脅かされるようになった写実表現を乗り越え、絵画芸術がその命脈を保ち得る新時代の表現形態が模索され、伝統技法の制約から徐々に離れてゆくのですが、芸術領域で進んだ近代のパラダイムシフトを伝統的表現セオリーの解体という観点から見てゆく事で、わからなくなる過程が掴めてきます。
また、この時代は自然光と陰影を描写する色彩表現においても光学的な分析が進み、”視覚混合”という人間の生理現象に属する錯視効果までも絵画技法として取り入れられ、更なる発展型の点描法に繋がります。鑑賞者側の視覚領域が変化すれば、それに伴い美意識も変化していった事でしょう。


製作の場が屋内から屋外へ移り、即興性を優先した拙速な筆遣いにより、刻々と遷移する陽光と色彩を瞬時に捉え、その主観的印象を画面上で表現として結実させるべく、絵具の原色の明度を維持しつつ、筆触の妙技で鑑賞者の網膜上で混色効果を実現する、「筆触分割」は印象派を象徴する画期的な発明となりました。
しかし、美術史上における印象派の重要性とは、その派生系である後期印象派が抽象絵画への扉を開き、その後の現代美術へと繋がる歴史の橋渡しを担った事にこそあるでしょう。

セザンヌ
ピカソわからない絵の元祖のような存在にパブロ・ピカソが居ます。
ピカソ以前・以後で絵画史が大きく区切られる程の変革者であり、美術史上の巨人です。
彼はその生涯で何度も作風を変え、一身で古典から近代、そして現代へと目まぐるしく変遷する美術史を体現してしまったイコンのような人物。従来の絵画表現のメソッドを大きく逸脱し解体を進めたが故に、その作風は今もって世間の理解を峻厳に拒み続けるが如し。
その彼のわからなさの原点である、「キュビズム」に影響を与えた画家こそが後期印象派を代表するセザンヌです。「構築的筆致」なる、対象物を多角的な視点で捉えた上で、一つの画面上に幾何学的形態を持った面の集合体として再構築する画風を確立した彼は、近代絵画の父と呼ばれています。
従来の絵画芸術の基本前提であった、主題対象の忠実な再現という目的を離れ、画面上の造形が抽象化された心象表現の手段として用いられるようになる分水嶺が彼の画風のメソッドにはありました。

絵画史における形態の革命がキュビズムであり、色彩の革命がフォービズムであるという言い方がされますが、それらの萌芽が後期印象派に見られるのです。

20世紀初頭、ルネッサンス期以降の写実表現を基調とする伝統的な絵画セオリーと訣別する二つの流れが起きました。
ピカソとブラックにより提唱された方法論で、対象を固定された単一視点からでなく、複数の視点から捉え画面上で多面体の幾何学的造形に再構築する事で、平面化、記号化し、従来の絵画セオリーであった遠近法の枠を脱却する表現を目指したキュビズム。
ゴッホ、ゴーギャンらの奔放な色彩表現の影響を継承した、マティスを代表とするフォービズムは対象の再現ではない、主観的な心象、感情の表現としての彩色を提唱する事で、やはり写実画の明暗法という従来の絵画セオリーからの解放を促しました。
多視点からの面・角度の導入、変則的な色遣い、細部の簡略化、対象の輪郭を厳密に捉えない形態、記号的な誇張といった描写の自由化で抽象表現へと近づきます。
これらの”革命”により従来の美術のコンテキスト、絵画表現のメソッドの延長線上で鑑賞者が絵を見る事が次第に適わなくなってくるのです。
ゴッホ
モナリザ絵画の構成要素を対象の再現という制約から解放し、それ自体で独立した価値を持つ、色面と形態の表現を可能にする新たな芸術領域へ飛躍させようとした、これらの運動をもって、印象派の勃興に始まる絵画の近代化の軌跡は、ひとまずの帰着点を得たと見做すべきでしょう。

ルネッサンス以来の変動期を迎えた近代絵画は、その帰結として伝統的、普遍的法則性に基づくセオリーを破棄してしまいます。
かくして、これ以後の絵画表現は主題の対象という鑑賞者と表現形態の形而下の接点を持たない、純粋な観念の表出としての創作の領域となり、より新しい抽象概念の提示を至上命題とする「抽象・前衛」が席巻する現代美術の時代に向かいます。
ですが、近代から現代への転換期でなされた、このメソッドの刷新がもたらしたものは、視点を変えれば芸術の普遍的価値となる”わかる基準値”の解体、あるいは崩壊であり、これ以後の展開は、もはや進歩であるのか退行であるのか判然としなくなってゆくのです。

モナリザ虚妄としての近代、終わらざる前衛
「進歩史観」というものがあります。人類文明は過去から未来に向かって、一直線に上昇線として発展向上を遂げてゆくとする、西欧由来の楽観的な歴史観の事ですが、これが最も信奉された時期が近代から二十世紀の中頃までにかけてです。
ポストモダン以後を生きる現在の醒めた目で見れば滑稽な程に、かつてそれは信じられており、数々の狂騒と悲喜劇を演出しました。

近代、産業革命が誕生させた資本主義社会の奔流は、その恩恵を享受できる上層とできない下層へと容赦なく人間を篩い分けてゆきました。埋めようのない溝が世界を二つの異なる体制に隔てた時、終わらざる前衛という長い春の到来が美術史上に約束されたのです。
そして異なる二つの思想を奉じながらも、両者は進歩史観への信頼という唯一点では奇妙に合致していました。
印象派以後の抽象絵画の表現確立と現代美術への発展を、資本主義と共産主義の分断を対立軸とした社会進歩の主導権争い、政争の具としての美術史という観点から検証する事で、進歩史観が芸術表現に与えた歪みが見えてきます。
単線的時間軸に沿った歴史解釈の弊害は、進歩の必然として想定される未来から逆算した視点で現在と過去を裁断するバイアスが掛かり、歴史的発展段階と見做す時間軸に単純化した善悪の優劣を持ち込み、理想の最終形態である未来より価値の低い次元として貶めてしまう事でイデオロギー的に大いなる錯誤が生じる事です。

現代美術というものに、ある種の胡散臭さを感じさせる素地があるとすれば、それは、その表現様式の胎動と誕生が、まさにこの進歩史観全盛の時代を背景としている事に起因するでしょう。

前衛運動の本義とは、既存の価値体系、体制側の旧弊な権威の打破であり、ぶつかる壁が強度を保てなくなれば、自らもその存在意義を消滅させる宿命を本来的に持っています。それでも運動が延命を続けるとしたら、どこかで手段と目的が入れ替わっている事を疑わねばなりません。
絵画芸術の領域において、勃興当初は前衛運動であった印象派の担った改革が、アカデミーの掲げてきた古典主義の美の規範に完全勝利を収めた事は誰の目にも明らかなのですから。
近代の道のり半ばまでにあっては、正しく進歩と呼べる社会の変革と歩調を合わせた、芸術表現の刷新が試みられていたように見えるのですが、いつの時点からか手放しにその進展を称賛するには首を捻りたくなるような変調をきたすのです。
モナリザルネッサンス期の変革が中世暗黒時代と呼ばれた期間を脱却し、ギリシャ・ローマ時代の人文科学に基づく美の規範を復権させ、その普遍的価値を獲得したのとは真逆の、栄光あるローマ帝国の崩壊と、その後の西欧文明の退行をなぞるかの如くに見えてしまうのです。
”革命”が進歩をもたらすものとは限らず、退行をもたらすものにもなりうる事を進歩史観という遮眼帯が、近代という疾駆する馬の目から覆い隠していたのではないでしょうか。
ローマ帝国崩壊後の西欧は、頑迷なキリスト教による一神教的世界観に基づく、原理主義的、教条的支配のために社会から多様性と発展性が失われ、長く文化の停滞期が続きました。

近代において盲信された進歩史観もまた、それを共有する社会に一元論的世界観への帰依を促すという意味で、一神教に似るのです。

目覚ましい近代科学の発展に後押しされた、進歩史観を近代以降の一神教になぞらえるならば、その信仰には教義の実践としての儀礼的慣行が付随するはずです。

とこしえに真新しき地である事を定められた聖域で、絶えず続く不可思議な運動、未知なる抽象概念の提示こそが天啓に等しき神事。
アカデミーの権威失墜以後の前衛とは、その推進力の源たるべき社会進歩の無謬性を永久に前倒しし続けるための方便であり、そのために手段と目的を転倒させておく装置が美術表現という形をとった宗教儀礼かもしれないのです。
19世紀において神は死んだのではなく、転生を遂げたのではないでしょうか。
進歩史観が近代以降の一神教であれば、それに命を吹き込んだのは資本主義という新たな教義でしょう。しかし、この教義もまた過去の歴史における宗教戦争に等しき分断をこの世界にもたらしたのです。

産業革命により生まれた資本主義と、それに対するカウンターとして生まれた共産主義が第一次世界大戦以後、それぞれブルジョアジーの教義とプロレタリアートの教義を掲げて、世界を二分する両陣営のプロパガンダ合戦を繰り広げてゆきますが、両者の宣伝に使われた美術様式ははっきりと好対照をなす形で別れました。
二律背反の対立構造の間に捻じれた一本の軸があり、資本主義圏は具象から抽象へ、共産主義圏は抽象から具象へと美術様式の時間軸を互いに逆向きに移動してゆくのです。しかも相互に理想の未来への進歩を喧伝しながら。

今日の世界において資本主義は勝利を収めていますが、それまでの20世紀の社会実験というべき冷戦構造の終結までに及ぶ紆余曲折の中で美術が果たしてきた、決して小さくない役割の意味を把握しておく必要があります。


その資本主義市場経済の担い手たち、未知数であった印象派絵画の市場価値を確立し、それを牽引した近代の画商・評論家たちについても触れておかねばなりません。18世紀までの教会・王侯貴族を主なパトロンとした絵画芸術の顧客層が市民階級の新興富裕層へ移る事で、新たな美術市場の立役者たちが登場します。
19世期後半のパリを中心とした美術界のパラダイムシフトは画家の表現様式のみならず、それを巡る評価軸の権威も貴族階級が独占していた従来のアカデミックシステムから、市民階級の画商・批評家システムへと譲渡される過渡期を用意しました。
美術市場の革新に先鞭をつけた近代画商の第一人者は、印象派絵画の市場をフランスからアメリカにまで拡げたポール・デュランです。
王立アカデミー主催のサロンから締め出されていた印象派の画家たち、無名時代のモネ、ルノワール、ドガらの作品を率先して買い取り、グループ展の機会をも提供し経済的援助も惜しまなかった彼の功績は、印象派の時代の光輝と共に人々の記憶に留められています。

それに続くアンブロワーズ・ボラール、アレクサンダー・リードといった進取の気風を持った画商たちによる冒険的投資と、ウイリアム・バレル、エミール・ビュールレ、アルバート・C・バーンズら酔狂な富豪コレクターたちの蒐集、美術評論家テオドール・デュレによる勇気ある印象派擁護の言説。
分けてもアメリカ上流階級出身の印象派画家として知られる、メアリー・カサットによる祖国での推挙は、彼女の属していた富裕層への印象派絵画の浸透を大いに推し進めました。
これらの影響により、印象派絵画は次第に世に受け入れられてゆくのですが、その過程で、この時期に新規の美術市場の開拓がアメリカにまで拡大された事は、その後の前衛芸術受容の歴史において非常に大きな意味を持ってくるのです。

反芸術の時代、躍動する解体
第一次世界大戦が近づく時期、後期印象派の影響を受け継ぐ画家たちにより、キュビズム・フォービズムとほぼ同時期のイタリアにおいても、新たな前衛的芸術運動である「未来派」が生まれていました。

当時の美術界の中心地であるパリから離れた場所で突如として気炎を上げた、この運動はその後、スイス発祥のダダイズムへ、そしてロシア・アバンギャルドへと破壊的なまでの熱量を持って伝播してゆきます。
中心人物となった詩人のフィリッポ・マリネッティが、「未来派宣言」をパリの新聞「ル・フィガロ」に発表した事を皮切りに、20世紀初頭で最も過激なそのムーブメントは幕を開けました。
キュビズム絵画の多視点の空間分割に加えて、写真機の連続撮影の要領を基にした時間の分割が未来派画家の作風です。
未来派の特徴は、その表現媒体が絵画領域に留まらずに彫刻、詩、音楽、写真、建築、タイポグラフィと多岐に渡って運動が展開された点であり、スチームパンク、インダストリアルアート、ノイズミュージック等、数多の現代に続く後継ジャンルを派生させました。
また、極右政党を称える政治的色彩が非常に色濃く創作に反映されていたという面も特筆すべきでしょう。


マリネッティは独裁的指導者となるムッソリーニに接近し、未来派の芸術表現は軍国主義賛美、戦争支持に傾倒してゆきます。

現在、ファシズムの父と呼ばれるムッソリーニですが、当初は社会主義運動の闘士であり、親交のあったレーニンからもイタリア国内での共産主義の若手ホープと目されていました。
イタリア社会党の党員であった彼は、第一次世界大戦が始まると参戦論を唱えた事で党から除名され、以後反社会主義・国家主義者に転向します。戦後に復員軍人を率いて国家ファシスト党を結成し、遂に一党独裁体制を敷くに至りますが、この間が未来派の全盛期となります。
単なる表現の革新者ではなく、確信犯として積極的に既存の芸術を徹底破壊する暴力性、過激さこそが彼らの特色であり、その主題は産業革命以来の恩寵としての工業化と機械文明礼賛、スピードへの熱狂、都市化する生活の称揚、果ては戦争賛美といった暴走気味の高揚感に彩られ、毒気に満ちたものでした。
結果としては、時代の徒花として消えていった感のある未来派なのですが、現代美術に至る前衛運動の歴史において、有意義なターニングポイントとなる影響を少なからず残しています。

未来派が掲げ、ダダイズムに継承された、既存の芸術の徹底破壊という主張を最も端的、かつ象徴的に体現した人物がマルセル・デュシャンです。
今日、現代美術の父と呼ばれる彼は、20世紀美術史上最大の事件とされる、ニューヨーク・アンデパンダン展への「泉」(男性用小便器にサインをしただけの物*近年の研究で製作者には異説もあり)の出品と展示拒否を巡って勇名を馳せる事になりました。

美術史上に概念の革命をもたらしたとされる、この事件がロシア革命と同年の1917年であるという事実は、世界史上の思想史的分岐点としても非常に象徴的です。
デュシャンは最初ダダイストの画家であり、キュビズムの影響下にある作風の絵を発表していましたが、第一次世界大戦寸前の時期に筆を折り、以降は「レディメイド」と称する既製品をオブジェ化した表現を行っていました。